飲酒と執筆

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授業始まるとこんなとこまで手が回りません

メンデレーエフ」梶雅範 ユーラシアブックレット no. 110 (東洋書店

メンデレーエフ―元素の周期律の発見者 (ユーラシア・ブックレット)

メンデレーエフ―元素の周期律の発見者 (ユーラシア・ブックレット)

こんなんまであるんで,うちの大学の図書館ありがたいです.授業で周期表の話をするんだけれど,メンデレーエフというと,重婚だの決闘だのなんかヤバそうな人物として紹介されているのをちらほら見ていて,気になっていたので,一度伝記の類を見ておこうと思って読む.

(1)「孟母三遷」の類いの話.これは『宇宙で一番美しい周期表入門』(小谷太郎)にも言及されている.ドミートリー・メンデレーエフは,校長先生の息子と地元の名門の商家の娘のあいだに生まれる.17人の子供がいたが,8人だけ成人.うち男3人.父が白内障で仕事ができなくなり,母が母の兄のガラス工場を経営して家計を支える.末の男の子のドミートリーに期待をかけた母は,高等教育を受けさせようとした.ギムナジウムの卒業生は同じ学区の大学に行くことになっていたが,元の学区の大学にやるのがいやだった母は,実兄を頼りモスクワに移りモスクワ大学に入れようとしたが果たせず.さらにペテルブルグへ移り,サンクト・ペテルブルグ大学に入れようとしたが,果たせなかった.しかし,同地の高等師範学校に入ることができた.高等師範学校は,サンクト・ペテルブルグ大学と合併したり離れたり,の関係であったので,実質的には,サンクト・ペテルブルグ大学と同様の教育を受けることができた.一緒に上京した母は,入学できて2カ月ほどで亡くなった.高等師範学校は授業料無料,寄宿舎等完備であった.

(2)重婚云々の話
(イ)姉さん女房を貰って子供まで二人いたが,不仲になって別居状態であった.(ロ)するうち若いねーちゃんと知り合いになり,求婚するが,離婚は成立していなかったので断わられる.ねーちゃんの親は心配して,娘をローマに高飛びさせる.(ハ)自殺しそうな勢いのメンデレーエフを心配した友人らが動いてくれて妻に離婚説得.当時は宗教のこともあり離婚はそれほど容易でなかった背景あり.(ニ)メンデレーエフはローマに飛んで再度求婚して受け入れられる.(ホ)二年ほどたって正式に離婚成立.ただし大学の給料は全部毟られる.正式に(再婚の)結婚式を挙げる.という経緯のようであり,正式に離婚が受け入れられるのよりも,再婚者との間の子供の生まれた時期が微妙だったりするところが,「重婚」と書かれるゆえんだったりするようだ.
同じ時期にロシア科学アカデミー会員に推薦されたが,投票で落選したこともショックであったという.

(3)日本との関連
本人は日本には来ていない.息子のヴラジミールがニコライ皇太子(後にニコライ二世:ロシア帝国最後の皇帝)とともに来日.大津事件(1891年)の際にも同行している.で,長崎滞在時に現地妻がいて,娘まで設けたと.彼女らはある時期まで送金されて援助を受けていたが,その後不明に.ひょっとしたら,メンデレーエフの子孫が密かに日本にいるかも知れない.

(4)功績について.周期律・周期表の話は当然として,化学者としてのスタンスは19世紀の人のそれで,周期律の話以外にはあまり大きな科学的功績は無いように思える.しかしながら様々な社会的貢献があり,科学者としては結構高い地位を得た人のようである.
・留学から戻って31歳でサンプト・ペテルブルグ大学の教授職を得ている.
・様々な教科書を執筆した.
・大学を退いてからは,関税改革,海軍省から依頼を受けた無煙火薬の開発,中央度量衡局の局長に生涯とどまりメートル法の導入に向けてロシアの伝統的単位とメートル法の関連付け(原器作成など)を行なった(全面的導入はロシア革命後の1918年).

どこかで,決闘云々といった話を読んだような気もするが,それは思い過ごしのようで,今回読んだ伝記には,そのような話は出てきませんでした.